AIのある暮らし 女性の活躍 編

 「男に都合のいい価値観によって支えられた 男にとって都合のいい社会 これは社会とは

呼ばないのです。何者かにとってのみ都合のいい社会は 社会と呼ばない。その社会の中に

存在しているすべての人間にとって都合がいい より豊かで より楽しくて そういうものが

社会でなければならないのです。」

 もう一度、我々は本当の意味での社会というものを作り直さなくてはならない。

 縄文時代は一万年間も戦争がなかった。この背景には 縄文時代の中心リーダーが女性だったという事実がある。たくさんの戦争を通して どんなに人殺しを繰り返してきたか

「深く反省して 一度男たちは降りなさい」社会のリーダーを女性たちに もう一度任せるときが

男にはその英知が必要なときが来たというふうに私は考えています。

「自分に正直に生きてみろ」より 安田 正著 ダイヤモンド社

 女性が中心となっている社会のシュミレーションを、AIを使って行うのはどうでしょうか?

 

ロボットデザイン 米田 裕さんのコメント

ロボットは誰がデザインするのがいいのだろう? 機械だから工業デザイナーなのか? 機能を追及するとエンジニアなのか? アニメのメカデザイナーなのか? ファッションデザイナーなのか? 考えると夜も眠れず昼寝してよだれを垂らすこととなった。

 夏の暑い盛りの昼寝はこたえられないね。

 なことしてる場合ではなく、ロボットのカタチは誰が作るのがいいのかということをすばやく書かねばの娘だ。

 自分で言うのも恥ずかしいが、オレはSFイラストを描いている(当人はまだ現役のつもり)。となると、SFに登場する見たことのないメカも描かなくてはならない。ロボットもそれらのひとつだった。

 ロボットはどういう姿をしているといいのか、それはとても気になった。小説のなかで書かれている機能を実現する形がいいのか、そんなものは関係なく見栄えのするものがいいのか、実在しておかしくないものがいいのか、つきつめて考えると1mmの線も描けずに締め切りとのせめぎあいで寿命が縮む思いをしていた。

 そして、SF雑誌の衰退とともに敵前逃亡してしまったカタチだが「不肖米田裕、恥ずかしながら前線に戻ってまいりました」だ。ロボットのカタチについて考えなければならない。

 ロボットが世の中に生まれ出ようという時代、子供のころに夢だった21世紀に生きる者として、ロボットの姿カタチはとーっても気になる。ロボットの姿を考えるために、過去のロボットからおさらいをしていこうと思う。

 

 

最初は人間そっくり

 元祖、本家、大元のロボットである『R.U.R』に登場するロッサムズの万能ロボットは、人造組織による人造人間だった。したがって外見は人間風だったと思える。
 もっとも、『R.U.R』は戯曲として書かれたので、舞台で演じないといけない。発表された1920年では、機械のような格好をして演じるのも難しかったので、人間と外観的に変わりがない姿となったのではないかと想像してしまう。
 実社会では、1920年代では、自動車が普及しはじめ、飛行機が飛ぶようになり、電気掃除機や電気冷蔵庫が登場しはじめた時期だ。
 著者のカレル・チャペックは先見の明を持って、ロボットを人間と変わらぬ姿としたのか、当時の舞台美術の事情からなのかはよくわからない。
 1907年には、アメリカの化学者 レオ・ヘンデリック・ベークランドによって、世界初の合成プラスチック「ベークライト」が発明されているが、当時は高価なものだから、それで人間のような外側を作るのも大変だっただろうね。

 1926年にはフリッツ・ラング監督による映画『メトロポリス』が公開され、女性型ロボットの「マリア」が登場したわけだが、あれは金属で作った着ぐるみだったのかな。だとするとかなり重いものだったろう。
 もっとも、映画館で見ていた男たちは「あれは女が変身したものでハダカなのだ」とムッシュメラメラと欲望をたぎらせながら見ていたのかもしれないが(笑)。
 やがて「マリア」の姿は、1977年公開の『スターウォーズ』の「C-3PO」に引き継がれるわけだけど、どう見ても、中に人が入っているわなというロボットの外観だった。
 ちょっと時代が進みすぎたので、もう少し前からロボットの姿カタチを追いかけてみよう。

 

 

機械としてのロボットスタイル

 1950年代、アメリカではSFブームとなった。アメリカとソビエト連邦の宇宙開発競争も手伝ったのだろうが、ロボットはSFの格好の題材だったため、ロボットSFも多く書かれ、それらのイメージイラストがSF雑誌の表紙をかざった。
 どうすればロボットが人間のように歩けるのかわからない時代なので、ロボットは胴体に細いパイプのような腕と脚を持ち、関節だけが丸く大きいというのが一般的な姿だったようだ。
 もちろん人間ソックリのアンドロイドもあったが、そうなるとロボットらしさが出ないと思われたのか、たいていは金属のボディに細長い手足スタイルだった。顔にも表情はなく、人間からも遠いスタイルだった。
 メカニズムや機械的なものが登場することで未来を表現できた時代だ。
 さて、その時代、日本ではロボットはマンガに登場する。みなさん、よくご存知の『ロボット三等兵』、『鉄腕アトム』や『鉄人28号』などだ。
 このうち「ロボット三等兵」はアメリカのSF画のロボットに近い構造だ。腕や脚は細く、関節が丸く大きいスタイルである。特筆すべきは股関節部分が描かれているところか。
 「鉄腕アトム」は、全身が人工皮膚に覆われているという設定なので、関節部分には1本の線が薄く引かれているだけで、その構造はわからない。それでも見えない部分には内部構造があるのだなと納得することができる。

 ロボットの姿はどんなものがいい? いま、『鉄腕アトム』のリメイクで浦沢直樹氏の『PLUTO』が連載されているが、その中に登場する「アトム」は人間と変わらない外観だ。というか、浦沢氏が描く人間と変わらない外観というべきか。

 手塚版アトムのように活躍するなら、空を飛び、100万馬力の力を発揮する。手塚版では「アトム」含め、人間もメカもカリカチュアされた姿だから違和感はなかったが、現実世界に投影してみると、そこらへんを歩いている子供が、いきなり空へ飛んでいったり、怪力を発揮したりする。これを当たり前と思えるようになるだろうか?

 現実世界でのロボットデザインはいろいろと難しい。マンガやアニメのロボットを大きくすればいいという解ではなさそうだ。

 そしてロボットデザイナーはまだいない。たぶん100年前、自動車のデザイナーもいなかったと思う。この100年でロボットデザイナーは育っていくのだろうか。

 絵という自分の仕事にも関係しているので、ロボットの姿カタチは気になる。どうなっていくのか楽しみに見守りつつ、折にふれて考えていきたいね。